E-1 三滝ダム 智頭町芦津
形式:バットレスダム
規模:高さ23.80m 堤頂長82.50m
総貯水量:275,800m3
着工:1935(昭和10)年12月 1日
竣工:1937(昭和12)年 7月31日
山陽水力電気が、姫路方面の工場への電力供給を目的として手がけた芦津発電所(三滝ダム)の建設は、その後、因幡水力電気から日本電力株式会社を経て完成、現在に至っている。
芦津発電所
・形式:ダム水路式
・出力:2,600kW
・使用水量:1.67㎥/s
・落差:189.32m
三滝ダム(バットレスダム)は、日本で建設された最後のバットレスダムであり、歴史的土木施設として高い価値があるという理由で、「平成14年度 土木学会選奨土木遺産」に認定された。バットレスダムは珍しいタイプのダムで国内に6箇所現存している。
ダム上部の通路は、「三滝遊歩道」として、ダム名の由来となった三滝(三段の滝)をはじめ、芦津渓谷を眺めながら散策できる。
(バットレスダムとは)
水をせき止める薄いコンクリートの壁の後ろに、これを支える壁(バットレス)をつけて水圧を支える形式のダムをいう。
(中国電力株式会社 鳥取支社様 提供)
近代遺産「三滝ダム」(筆 智頭町史編さん専門員 村尾 康礼 様)
鳥取県には、近代化の息吹を感じさせる歴史的建造物や土木遺産が数多く残されていますが、今回、紹介する智頭町芦津の「三滝ダム」は、近代化遺産を代表する大規模な土木関連施設の一つです。この地域の豊富な水量は、今なお下流域にある芦津発電所・新大呂発電所に給水しており、電力をひろく配給して地域に多大な恵みを与えています。
「三滝ダム」の水源は、標高1,300m級の東山・沖ノ山の南側に源流を発し、「氷ノ山後山那岐山国定公園」に指定されるほどの風光明媚な景勝地を流れ下り、千代川へと通じています。芦津「沖の山トンネル」の辺りから始まる芦津渓谷を登ると、大小の滝やおう穴が無数にあり、起伏に富んだ花崗岩の岩盤が露出し、中でも最大の滝、「三滝」は比高20m、奥行きが17m、雨量が多い時には三曲に変化するところから、この呼称が付けられたといいます。その上流域に三滝ダムがあります。
この三滝のことは、200年前に書かれた『因幡誌』に見聞した記録が紹介されていますが、地元では、この滝には古くから龍神が住むといい、日照りで水が涸れ、稲作に支障を来すと必ず龍神に雨乞いを祈願して降雨を期待したものです。棟札には、嘉慶元年(1387)に「三滝蔵王権現を祀る」とあって、それ以来、虫井神社の祭神として親しまれ、村民の心の支えとして久しく崇められてきました。
ところが、明治42年に、当時、発展途上にあった鳥取電灯会社が芦津渓谷に水力発電所を計画し、三滝を開削して堰堤をつくる事業が知れたことから、芦津村では、灌漑用水の不足と筏流しの中止に強く反発しました。このことから明治44年に鳥取電灯会社はあっさりと計画を断念し、水利権を放棄してしまいました。これで芦津村は火の粉を払ったつもりが、今度は、かわって姫路市の山陽水力電気が、従来からこの地に着目していたようで、県知事をまず動かし、許可を取り付け、工事に踏み切ったのです。地元では堰堤の危険性・筏流しへの支障・山林への障害・灌漑用水の不足などを理由に、村全体を揺るがすほど執拗に抵抗したと、当時の『鳥取新報』が「三滝問題」として事態の推移を報じています。
近代化の波は、この山間地域の自然の恵みと信仰の伝承を踏み付けて開発に及んでいきました。大正6年、智頭町議会は筏流しの廃止、灌漑用水の確保と保証をもって同意し、会社側に押し切られたようです。芦津村の抵抗は後まで尾を引いたようで、当時、芦津村小学校六年生の少女の日誌には、「電灯が八河村(隣の村)と南(芦津村の南の村)には点ったというのに、芦津村にはありません。芦津村にはあまり早いことには行きません」と、その生活を嘆く内容の文章が県下で佳作に入選したと、『鳥取新報』(大正8年12月25日)が伝えています。
このころの時代の流れは激しく、静かな山村に衝撃と不安を与えながらも建設工事や電柱建設が進み、大正12年5月、電気が点灯したと記されております。その恩恵によって智頭の地場産業、ことに電力による製材技術の向上を招くことになり、林業王国といわれた智頭町の発展を促す大きな原動力となっていったのでした。